韓国の反出生主義

概要

人間がこの世に生まれることは、生まれる存在にとって害悪であるため、子どもを作らない方が望ましいという倫理観だ。

反出生主義は、生物の本能である死に対する拒否感、生に対する愛着、繁殖欲求などに正面から衝突する思想であるため、社会的に認められにくい。どうしても内需増加による経済活性化、労働力確保、「民族」の保存などを理由に出産を奨励する傾向がある。

これらのために近代までも安楽死を含めた自殺、独身、DINKs、同性愛などは悪辣に弾圧に遭い、現在も地域によって弾圧されている。 そして、弾圧までではない地域も、このような個人の選択権を無視しようとするムードは変わっていない。 ただ、改善が見られることはある。

これらの主張によると、「世界はあらゆる種類の苦痛・不幸・悪が共存する場所であり、実際に孤児をはじめ、様々な劣悪な環境で苦しんでいる子供たちも多い。そして、良い環境で生まれて生きている人であっても、不運にも襲ってくる苦痛は避けられない。

また、人口も過密で、人間が十分に考慮されない。 それでも人間は絶えず、同意なしに親によってこの世に強制的に投げ出される(ハイデガーの「被投性」)。ということだ。もちろん誰かが視点や環境に応じて世の中には喜びと幸せを含めて良いものもあると言うだろうが、それらが個人の苦痛と不幸という不条理を相殺することはできず、このような不条理は常に存在するしかないという。

出生反対は種族的自殺と解釈され得るため、自殺に対する肯定論とも一部相通じる部分がある。しかし、反出生主義は生存が大変だから、「皆ですぐ死ぬ」という極端な思想ではない。すでに生まれた以上、進化した生存本能のために死にたくても死ぬことは容易ではなく、試み自体が苦痛だから、すでに生まれた人はなるべく苦痛を避けて楽しく暮らして相続でもしないようにしようというのが思想の核心だ。

 

人間と世の中を否定的に見るという点で、厭世主義、虚無主義の内容とも一致する部分がある。 このような事象が自然科学と無神論的思考を含む人間の理性が急激に発展していた近代から確立され始めたことは偶然の一致ではないと言える。

現代のコペンハーゲン解析後も、依然として巨視界は決定的であり、脳損傷·脳手術·ホルモンなどによって性格が変わることもある。 また、催眠のような刺激はもちろん、何の理由もなく時間が経てば簡単に記憶が変調されることもある。霊魂・自由意志・死後世界・神などは存在可能性を完全に否定することはできないが、存在仮定は不要である。すなわち科学的な観点としては、反出生主義を排撃する一般宗教の教理に縛られる必要がない。 この部分も宗教的、神秘的な思考を持った大部分の人々が反出生主義思想に拒否感を感じさせる要因として作用する。

事実、宗教・神秘主義的な立場だからといって、いずれも反出生主義を否定するわけではない。代表的に領地主義やそれに影響を受けた多くの教派は妊娠および出産を否定的に認識する傾向が強かった。しかし、このような考えは、政治既得権と利害が一致した宗教既得権によって、異端、似非と決めつけられ、残酷に弾圧されてきた。

インド宗教の輪廻思想も、反出生主義的な観点から見れば、苦痛の遺伝的継承を秘めたものと解釈される余地がある。仏教・ジャイナ教などは世界を苦痛に満ちた場所で、人間を輪廻の苦痛に苦しむ存在と認識しているが、これは反出生主義と相通じる面がある。 同じ観点から、解脱と涅槃の概念も悟りを通して繁殖欲求という煩悩を克服し、繰り返される生と苦痛の呪縛を拒否するものと解釈できる。

https://namu.wiki/w/반출생주의

 

反出生主義者は、人間が子供を作ることで誕生される存在に、彼と事前に合意されていない苦痛の可能性を強制しており、これは道義的に正しくないため、慎むべきだと主張する。

現代の人口過剰によって発生する様々な人権問題、環境破壊と資源枯渇問題、人間の営利のために残忍に犠牲になる家畜と動物実験のような動物権または生命権問題など、生態主義で扱う問題とも関連がある。

反出生主義的な談論に対して、「一人で自殺すればいいじゃないか」という嘲弄がよく登場する。しかし、生まれ変わった以上、高度に進化した生存本能のため実行が難しく、精神的に苦しいだけでなく、社会も自殺を抑制するために楽な実行方法を最大限遮断し、不便と苦痛に誘導するということを忘却した論点逸脱であり、本能的な拒否感の表出にすぎない。

そして、このように苦痛を経験せざるをえない世の中に強制的に召喚することを擁護し、「억울한(抑鬱な)個人が自殺すれば済む」というのは、自殺する被害者を量産し続ける不道徳を擁護するのと同じだ。 その他にも、自殺者の周りの人が経験し得る精神的苦痛の問題などがある。

 

訳語について

「私たちが望んで生まれたわけではないので、“反出生主義”の代わりに“反出産主義”の方がよい」という意見がある。このような意見の背景には、フェミニズムに反感を持つ立場から「出産負担を女性だけ消す」とし、「少子化を低出生に言い換えよう」というフェミニストたちの主張によって、「反出生主義」という単語も政治的な造語に見えて生じる拒否感があり得る。

 

青年層の社会問題

過去から存在はしてきたが、タブー視されていた談論が2010年代後半に入って、本格的に見直されるのは、この時期青年世代の失業問題のような経済的問題と密接な関連があるように見える。環境上、子どもに譲る財産がなく、これ以上子どもに老後扶養を期待できないなら、子どもを生まない方が、予備親の立場でも生まれる子どもの立場でも、より良いことだ。

実際、好況が終わり、長期不況の中で青年失業が深刻化すると、まともに独立できない子供を扶養し続けなければならない親の事例が少なくない。 しかも、以前の発展途上国の好況は再び期待できず、今後も不況がさらに長引く可能性が高い。

自国の異性嫌悪とポリティカル・コレクトネス論議などの社会問題も、結局不況によって減ったパイをめぐり、各界各層が争う「縄張り争い」と解釈されるが、これは結果的に出産忌避現象を煽ることになる。

 

若い女性層の場合“非婚 非出産”というスローガンを通じて韓国で反出生主義を具体化して再発見することに貢献した。韓国フェミニズムの台頭とともに、国と社会が女性を産む機械であるかのように扱うことに反発する情緒が強化されたのがその背景だ。

実際、「反出生主義」という確かなキーワードは、主に女性系メディアや女子超コミュニティで取り上げられ始めた。 中絶(人工流産)も大部分肯定する方だ。キリスト教に対しても中絶に対する立場の違いや教理に内在する性差別のため、過去に比べて拒否感を持つ方だ。

 

若い男性層の立場から見れば、女性界が家父長制の弊害やMeTooに可視化された権力型の性犯罪がほとんど386世代・ベビーブーム世代を含めた既成世代に責任を問うことにもかかわらず、国防の義務が残るだけで、家父長制の恩恵はもうない若い男性の権利を性的感受性、女性割り当て制などで略奪することにだけ没頭しているものと思われる。

また利己主義的態度で両性平等は主張し、楽で安全な事だけは女性が先で、苦しくて危険なことは男性がするのが当然だとマッチョ論理を掲げたり、독박育児は罪悪だとしながら독박兵役は子を使って無視して、その上利益のためにフェミニストが主敵としなければならない、妻をお手伝いさんのように使って性犯罪を犯してきた既成世代と政治的に迎合する姿を見てフェミニズム勢力の二重的な態度に嫌気を感じながら、ペンス・ルールを叫んで結婚と出産にも強い懐疑心を持つようになった。


偽善的な既成世代に対する怒りと社会に対する絶望も現象の原因と見ることができる。特に韓半島史上最高の経済好況の恩恵を享受した民主化・社会運動世代は正義を叫んで、軍事独裁政権を打倒しながら、自分たちが既得権に近づくと、自分たちに有利な積弊は踏襲して権威主義全体主義要素を維持する面を見せた。

また、青年世代に対する強気・性犯罪と投機のような醜態が最もよく報告される世代であり、そうしながらもベビーブームを経験した世代らしく「でも結婚はして孫は見せてこそ、親孝行だよ。」のようなやり方で青年世代の絶望に共感をしない面がある。

ただ、民主化世代も戦争が終わったと楽しく生んだ産業化世代によって生まれ、多くの兄弟姉妹の中で放牧されるように育ったことは考慮しなければならない。もちろん、産業化世代また、自分の親世代によって日帝強占期末期に生まれて韓国戦争を経験するなど混乱のために学ぶことが不足した状態で生まれてたことなので、どの世代であれ責任を完全に水に流すことはできない。 そしてベビーブームを起こした老人世代はOECDの老人自殺率や貧困率1位でその代価を払っている。

つまり、奴隷のように生き、親譲りが嫌だという心理は、上記のような既成世代の姿を見て学習した結果であり、結果的に子どもを生みたくない国を作ったのは既成世代だと言える。結局、男女を問わず青年世代で反出生主義的な思考を共有するケースが増加した。 もちろん、まだ結婚と出産を望んでいるが、諦めたり、単に関心がない場合にとどまる割合が高い。

 

道義的問題

青年層の経済的問題やフェミニズムなどが反出生主義的思想に対する共感を促したのはその通りであり、マスコミの報道記事もこれだけに集中する傾向がある。 しかし、たとえ自分の老後が心配されても、子どもに不幸を引き継がれないという善意が本質だという見解も存在する。

反出生主義の思想を持った青年世代の場合は決定論またはスプーンの階級論を信じて'土のスプーンの親(以下土親)'の出産は子供に罪を犯すことだという考え方をもっている。

「土親」の他にも「繁殖虫」という卑下的な名称も存在する。 日本の場合、あるテレビ番組に出演した典型的に無能で無責任な低学歴者の親を指す「DQN」という蔑称も存在する。

 

事実、離婚率が高い孤児と資格不足の両親などを考えてみれば、むやみに結婚、出産と多生児家庭を奨励する状況は、赤裸々に言って国家と既成世代を扶養する奴隷を生産するように督促することであり、結局、世の中にはびこる不条理の一つと言える。 むしろ生物の本能である生物の本能である繁殖欲を克服して産まなかったり、他人が無責任に産んだ子供を代わりに養子縁組する親がずっと良心的で利他的だと言えるというのだ。

実子でないほかの親が無責任に産み、遺棄した子どもを養子縁組する際も、最小限の資格を審査するのが現実である。人間ではない動物版資格未達親であるアニマルホーダーさえ非難を浴びて動物虐待で処罰され、一部の先進国では予防に向けて飼育する資格があるかどうか財産や住居を審査することまでしている。

ところが、妊娠と出産は地球上どの国も最小限の資格審査さえなく、むしろ少子化を打開するために様々な不安定な形の出産も勧めようとしている状況だ。 これは道徳的に一貫性がないだけでなく、国益と愛国を盾にした児童虐待と見ることができる。

 

韓国は「養子縁組児輸出大国」という汚名を着せられて久しいにもかかわらず、孤児問題が改善されておらず、国内の保育園の虐待や不正問題も頻繁に発生する。 保育所児童虐待問題で苦しんでいるのに、抗議する親すらない子供の場合はさらに脆弱にならざるを得ない。 このような状況にもかかわらず、無闇に新しい不幸の可能性だけを生産するよう奨励するのは不道徳だ。

また、養子縁組はもちろんペットまでも飼う資格を論じているが、養子縁組する資格さえない無能な親が子どもを産むことに何の制約もないというのは、ひどい矛盾だ。 さらに、第三世界では多くの両親が、児童労働・売春・人身売買を通じ、子供を搾取したり、掛け声を受けるための宣伝手段に子供を利用する例が少なくない。

そもそも本当に生まれてくる子供を心配する親なら、例えば本人治療に必要な投薬に奇形誘発の恐れがあるとすれば、その間は避妊するのが当然だという社会的認識がある(「非同一性問題」)。 同じように生まれてくる子供のためなら、経済的に苦しい時は産むことをためらうのが正常だと言える。 つまり、単に「お金がなければ子供も産むなということか!」という考えで富裕層に対する劣等感を解消するために子供を産むというのは、考えてみれば極めて本能的で利己的だ。

 

子どもは親の楽しさのためのペットでも、代理満足のためのアバターでも、老後のための保険でもない。 しかし、国家・社会は子どもが幸せに生きるべきだと力説しながらも、生まれてくる子どもの高い不幸の可能性に背を向け、親の繁殖欲を満たし、既成世代の老後扶養だけを優先視する傾向がある。

これまで既得権については体制の維持や扶養基盤を確保し、低所得層の親は動物的繁殖欲を満たすそれなりの「ウィンウィン戦略」が成立した可能性もある。 しかし、教育とメディアによって目線が高くなった子ども世代の場合は、これ以上不幸の継承を望まない方であり、出産率も既成世代に比べて著しく低い。

 

富裕層の子どもでさえ幸せを確信できない。 彼らも地位による親の体裁維持のために適性に合わないことを強要され、精神疾患に悩まされるなど、それなりの苦労がある。

ある悪質な独裁者、犯罪者や社会の主流に蔑視される障害者、精神疾患者、性的少数者などの少数集団も、結局は物質的・遺伝的・精神的土親によって強制的に世の中に生まれた存在といえる。

また、現代に入って3K業種の需要によって劣悪な環境で働きながら、利益問題のために嫌悪される外国人労働者問題も結局、考えてみればその国の土親問題である。 難民問題も然りだ。 結局、土の親が諸悪(万恶)の根源とも言えるというのだ。

さらに一歩進んでいけば、たとえ物質的・遺伝的・精神的土の両親ではなく理想的な親であっても、彼らの子どもが必ず幸せに暮らすという保障はない。 結局、社会に不幸と苦痛が共存する以上、程度の差に過ぎず、妊娠や出産そのものが悪行である可能性があるという結論が導き出される。

 

上流層も生老病死は避けられない。 まして人間が生きていればいくら注意しても交通事故などの不測の事故に遭いかねないが、低所得層の場合3K業種に従事する場合が多く、命を失ったり、永久的な障害または後遺症が残る事故に遭遇する可能性が高い。

たとえ親が別に未練や大きな苦痛なしに死んでも、残された子は物質的にも精神的にも難しくなる公算が大きいのに、国家有功者の遺族さえもまともに待遇を受けることができないのが現実だ。 韓国社会に蔓延っている不条理が、どのような形で残された子どもを苦しめるかは誰にも分からないし、これに対する完全な防備も不可能だ。

また、既に世界大戦が二度も起きただけでなく、国際情勢と韓国の地政学的位置を考えたときこれからも戦争や局地挑発によって韓国の子孫が惨禍に見舞われる可能性は決して低くない。

 

人間は生まれてから、正確には受精卵が苦痛を感じることができるほどの胎児に育った瞬間から、絶対苦痛を避けることはできない。特に肉体的・物質的苦痛はさておいても精神的・感情的苦痛は決して避けられない。

人間は無視される時は侮蔑感を感じ、万人の上に君臨して崇拝されても孤独を感じるなど、両面性を持つ。 甚だしくは同じ事件でも良いと同時に嫌なアンビバレンスさえ感じる。

そして予定された死に対する恐怖も苦痛、加えた人生の苦痛を避けるために、事前に自殺しようと心を食べることさえ苦痛、解脱の末に到達した虚無感さえ苦痛だ。 したがって、苦痛を避けるべき悪だと考えるなら、妊娠および出産行為を慎むべき悪行と見ることができるということだ。

 

出産後だけでなく、出産行為そのものにも問題がある。 手狭な産道を割って出て初めて息をする苦痛はさておいても、出産は医学が飛躍的に発展した現代にも依然として産婦と産児の生命を脅かす行為である。

結局、このような危険性を親が正確に知って妊娠したなら、出産時の死亡事故は逆説的にも未必の故意による間接的自殺や殺人と解釈される余地がある。

もちろん、産婦は自ら危険を甘受することもでき、自動車など文明の利器によって発生する危険性は社会的な互恵契約で甘受するのが人だ。 しかし、子どもの生命と人生に関しては、子どもと合意する方法が全くない。 これもまた出産を勧める社会と宗教が内包する矛盾であるといえる。 当然のことだが、全世界のどこにも「妊娠致死罪」はない。

 

結局、子供の幸福がさらに大きくなるかもしれないし、自分はうまく育てる自信があるから、産んでもいいという主張は、無責任な楽観論に過ぎない。 特に、親自身の欲のために子どもが経験する「人生リスク」を子どもの代わりに甘受するという点で、厚かましい主張だ。

子供の人生が幸せで終われば元手になり、不幸なら責任を取る術は皆無だ。 法廷被告人の誣告の可能性は突き詰めながら、それよりさらに深刻に考えるべき子供の不幸の可能性には背を向けるのは一貫性がない。 たとえ自分の人生に満足する人であっても、子どもを生んで受け継がせると、不幸な人生は必ず生まれるものだ。

 

決定的に、親は子どもがいつか死ぬことを知りながら産む。 親の懸命な努力で子供は幸福な生活を送る 仮定しても、死を避けることができない以上、子どもは死の恐怖と幸せな分、もっと生きたいという残念さを感じるようになる。

そして、いくら子どもが望まないとしても、子どもの幸せは子どもの生命とともに死が奪われる。 このような「与えた奪った」の状況を作らなければならない理由は、少なくとも子供の立場ではなく、最初からこのような状況を作らない方がましだ。

安楽死が全面許可されても、死ぬ前まですでに苦痛を経験したこと自体が不合理だという問題もある。 例えば、誰でも拉致して望まない苦痛を与え、「すまない」と言って殺したり自殺させたりすることは、それで苦痛が終わったとしても容認できない罪悪だ。 このようなリスクをあえて甘受することから結果に関わらず、無責任で利己的な悪行であるということだ。

 

親にならないだけでも、たった一人でも非出産に心を向けるようにした場合、どこまで受け継がれるかわからない数多くの不幸の可能性を事前に遮断したことなので、それだけでも莫大な善行かもしれない。 そして、無責任な親に遺棄された子供を養子にまでして立派に育てるとすれば、至高の善行だろう。